ほどよい自己

僕はある種の心の悩み、というか病を抱えて、この18年ほどを生きてきました。

自分では、悩みの種がどこにあるのか、何であるのか、もう分からないほどに病の木々は繁茂していました。

そして、木々に愛着が生れ、木々になる知識の実も、苦しいながら「享受」していました。
「その実は身体にも心にも毒だよ」という友人たちの声は、方々でしていましたが、耳には入ってきていませんでした。聞こえたけど、聴いていませんでした。

毒にも薬の効果はあるのだが、ついに実の量が飽和に達したのだと思います。

まずは、「学問的スタイルで記述される哲学」の木が倒れました。
身の丈に合っていないスタイルへの欲望が渦を巻いていました。
倒れた木の根元に、悩みの種を一つ見つけました。
それは、あまりに高く見積もった、肥大した「自己像」でした。
現実の鏡は、僕たちの「姿」は映すけれど、「自己像」を映してくれるわけではありません。

「自己像」は他者の言葉においてのみ映されるのだと思う。

実際に悩みのこじれが、かなり解消した今となっても、あまり気の効いたことは言えないのですが、物凄く大事なのは、自分個人に宛てられている言葉への感度を落とさないこと、だと思います。
居酒屋での一言一言、電話で言われたこと、メールで書いてくれたこと、そうした掛替えのない言葉が、「ありえない」理想を描くように自己を翻弄する欲望の波から自己を守ってくれる防波堤となってくれているのです。